要約
東日本大震災時、Cさんと母親は自宅で過ごし、水、薬、栄養補給品の備蓄が役立った。しかし、食料やガソリンの確保は困難で、遠くの友人からの支援が大きく助けとなった。災害後、自身で備蓄を増やし、吸引器の劣化を確認し、薬や栄養補給品を常に持ち歩くようになった。また、避難所や電源供給地点を知るアプリの開発や、普段の生活の延長に災害時の施設があることの重要性を認識した。発電機の必要性も増しているが、購入やメンテナンスは困難である。
目次
発災時の被害状況
集合住宅の5階
- 二人とも自宅にいて(学校は早く終わる日かお休みだった)、母は仕事に行く準備をしていた。
- 大きな家具は転倒防止の対策をしていたので、倒れることはなかった。
- 冷蔵庫など大きなものは部屋の半分位は移動していたので、中の物は倒れていた。
- ライフラインはすべて止まった。
発災時の状況・どのタイミングでどのように動きましたか?
発災直後~72時間(3日後)までの状況
- 備蓄はしていたが何をするにも水が必要と考えて、様子を見に来てくれた祖母に、近くのお店で水を買ってきてもらえるようにお願いした。
- 避難するには持ち物もかなりの量になるため、一人では無理、ガソリンも残り少なかったこともあり、家にいた方が良いと思った。本人が小2の時に耐震工事をしていたので、崩れることはないという安心感もあった。
- 仮に、その時手伝ってくれる人がいても避難はしなかったと思う。どこに行っても電気・ガスが止まっていたし、家にいても変わらないこと、当時は人工呼吸器も使っておらず、吸引も頻回でなかったことも要因。電気がなければ命に関わる状況であれば考えたと思う。
72時間(3日後)~1週間程度の状況
- 本人の水・栄養・薬は1か月分位あったが、母の食べるものがほぼなかった。冷凍庫にあったお肉などをカセットコンロを使って焼いて食べた後は、何もなくなって乾燥パスタを口に入れていた。町内の集会所で備蓄物配布していたが、余震もあって本人をおいていけない、連れて行ってもその後必死な思いで(5階まで)帰らないといけないので、取りに行けなかった。持ってきてくれることもなかった。